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20年も経ったことに驚きます。毎年、あの日経験したことを繰り返し、ブログやらtwitterやらfbやらに書いてきましたが、まるで昨日のことのように思い出されます。それほど、強烈な記憶として忘れられないのです。#阪神大震災20年
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17
あの瞬間寝てた部屋はめちゃくちゃになり、危うく焼け死ぬとこでした。当時我が家はガスを使っていて、震災時は母が炊事中だったのです。母は、とっさにガスのスイッチをオフにし元栓をしめしゃがんだそう。「私があんときガスひねらんかったらな、あんたはいま生きてないんやで」 #阪神大震災20年
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17
家の2階を支える太い柱が曲がり土台から外れ、余震のたび餅つきのような不気味な音を出して動いていました。何度目かの余震が、傾いた我が家にトドメを刺し、われわれも瓦礫に埋れるか、今度こそ火にまかれて亡くなるんだろうか?そんなことばかり思いながら毎日震えていました #阪神大震災20年
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17
震災当日に通っていた中学校に登校すると、校舎の壁面に巨大な亀裂ができ、教室はめちゃくちゃになっていました。すぐに下校させられ、その夜私はインフルエンザで倒れ、10日以上学校を休みました。 #阪神淡路大震災20年
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17
JRが寸断され、姫路から神戸大阪方面へは播但線と山陰線経由でしか行けなくなり陸の孤島に。父が当時駅員で、新長田駅にいた関係で我が家にあった鯉幟を寄贈してました。あの日、町と共に鯉幟は灰に。綺麗な街並みになってだいぶ経ちますが、未だ新長田へは行っていません #阪神淡路大震災20年
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17
突然のみぞれに遭遇。寒いと無性にうどんが食いたくなる。それとたまたま目に入った、という理由で近所の、食べログやらぐるなびやらとはこれからも関係ないと思う下町のうどん屋へ。 #udon #うどん pic.twitter.com/CzGfOk45Hj
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17
家で、嫁と夕飯をば。今夜はルーを使わないシチューをば。 #yuhan pic.twitter.com/Kl0Eyhgwe7
— na_hi (@nahicrz) 2015, 1月 17